講師紹介
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ここが違います!
- 不動産取引・ファンドビジネスの実務経験に裏打ちされた講義をしております
- 業界団体・大手企業から小規模企業に至るまで豊富な講演実績があります
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- 「実務に即していて非常に分かりやすい」と受講者から高い評価を頂いています
プロフィール
中沢 誠
昭和44年(1969年)生まれ。
埼玉県大宮市(現さいたま市)出身。
平成4年(1992年)早稲田大学法学部卒業。
大手不動産流通会社にて仲介営業・契約審査業務を経験後、外資系投資ファンドに転じ、10年以上にわたり不動産アセットマネジメント業務に従事。
平成22年(2010年)不動産法務サポートオフィス行政書士事務所開業。
平成26年(2014年)一般社団法人不動産ビジネス専門家協会代表理事に就任。
- 行政書士(登録番号第10080945号)
- 宅地建物取引士
- 一般社団法人不動産証券化協会認定マスター
- ビル経営管理士
- 認定コンプライアンス・マネージャー
- 土壌環境リスク管理者
- 競売不動産取扱主任者
- 定借プランナー
- 一般社団法人不動産ビジネス専門家協会 代表理事
- NPO法人キャリア権推進ネットワーク 正会員
執筆・掲載実績
スマイスターMagaZine | 不動産情報発信サイト「スマイスターMagaZine」にてコラムを執筆しております。 |
不動産信託受益権取扱業者のための態勢構築と契約書式マニュアル (綜合ユニコム) 2015年1月発行 | |
月刊プロパティマネジメント (綜合ユニコム) 2013年5月号 | 不動産ファンドの成長戦略には業務アウトソーシングと企業コラボレーションが不可欠 (インタビュー記事) |
ふたなNEWS (四国電力) 2012年10月発行 | 不動産法務に関するアドバイス |
月刊プロパティマネジメント (綜合ユニコム) 2012年1月号 | 不良債権セールはじわじわと増えていく |
月刊プロパティマネジメント (綜合ユニコム) 2011年12月号 | いま、「NPLビジネス」を考える -不良債権取引の過去・現在・これから |
行政書士試験合格者に学ぶ勉強法 (法学書院) (平成22年版) | アラフォー・オヤジの受験奮闘記 |
→ 講演実績はこちら
ヒストリー
かなりの長文ですが、中沢誠がどのような人間であるかを知って頂けたら幸いです。
- 幼少期~小学校時代
私が生まれた昭和44年(1969年)というのは、「東大紛争」や「アポロ11号による月面着陸」があった年ですが、当然のことながらそのような記憶はありません(笑)。
私の名前の由来には諸説ありますが、「伯父が夢の中で新選組の旗印を見たから」という説が有力です。
子供の頃のことは、実はあまり覚えていません。
ただ、体育の授業が憂鬱だったことだけは覚えています。
子供の頃というのは、運動ができる子が脚光を浴びることが多く、逆に運動が苦手だと劣等感を植え付けられやすいものだと思いますが、まさにそんな感じでしたね。
とはいえ、それでも何人か気の合う友達はいましたし、そんなに暗い子供時代だったわけではないと思います(笑)。
- 中学校時代
地元の中学校に通っていました。
相変わらず運動が苦手でしたので、部活動は「写真部」でした。
とはいえ、ただ仲間と一緒にいるのが楽しかっただけで、撮影技術は全く向上しませんでしたけれど。
この頃、運命の出会いがありました。
友人たちとバンド(もどき)を結成し、文化祭に出演することになり、演奏した曲が浜田省吾の「マイホームタウン」でした。
友人の一人がファンだったためですが、私もすっかり虜になってしまいました。
それ以来約30年になりますが、今も浜田省吾のファンです。
大げさでなく、私の人生に大きな影響を与え続けていることは確かです。
この話を書き始めたら止まらなくなってしまうので、また別の機会に(笑)。
- 高校時代
昭和60年(1985年)、早稲田大学本庄高等学院に進学しました。
友人たちと電車を乗り継いで旅行に行ったり、文化祭で映画(ビデオ)を制作・上映したり、と付属校ならではののんびりした学生生活を満喫しました。
楽しかった思い出はいろいろありますが、勉強をしたという記憶はあまりありませんね…。
- 大学時代
早稲田大学法学部に進学したのは、昭和63年(1988年)のことです。
当時はバブルの絶頂期。
華やかな世界にはまったく縁がありませんでしたが、サークルやらアルバイトやらで殆ど勉強もせず、お気楽な学生生活を過ごしておりました。
周囲には司法試験に挑戦する友人も少なくなかったのですが、法曹(弁護士・裁判官・検察官)になった自分の姿をイメージできず、一度も受験することはありませんでした。
もっとも法律の勉強そのものは嫌いだったわけではなく、仲間と商法(会社法)の勉強会を自主的に開催することもありました。
- そうだ「宅建」を取ろう!
お気楽な学生生活を満喫していた私も大学3年になり、さて就職はどうしたものかと考え始めました。
「法学部でありながら、司法試験や司法書士試験の勉強もせず、成績もギリギリ。このままでは何もアピールすることができない」という焦燥感の中で、「とりあえず」宅地建物取引主任者の試験を受けることにしたのです。
その時点では不動産関連の仕事をしようという希望を持っていたわけではなく、ちゃんと勉強できるよ!というエビデンス(証憑)にしようという魂胆でした。
3か月くらいだったと思いますが、それこそ朝から夜中まで一日中勉強しました。
9月に北海道へ一人旅に行ったのですが、その時も列車の中でも宿でもずっと宅建の勉強…いったい何のために旅行に行ったのか分かりませんが(笑)、自分でも呆れるくらいストイックに取り組んだ記憶があります。
その甲斐もあって、宅建に合格することができました。
(ちなみに私が受験したのは平成2年(1990年)なのですが、この年の合格ラインは26点であったのに対し、自己採点が34点であったというのがちょっとした自慢です。)
- 三井不動産を蹴って三井不動産販売へ入社?
宅建の勉強をしている中で、「なんとなく」不動産関連の仕事も面白そうだなと思い、不動産関連の企業を中心に就職活動を始めました。
「多くの人にとって、マイホームというのは最も高価な買い物であり、人生の中で一回か二回くらいしか経験しない大きな、そして幸せなイベントです。そういった場面に立ち会うことができる不動産仲介の仕事に携わりたい…」
確かこんな感じの志望動機を言っていたような気がします。
嘘ではないですが、青いですよね(笑)。
幾つかの会社から内々定を頂いた中で、最終的には三井不動産販売にお世話になることを決めました。
その後内定者が一同に会する機会があり、内定者が一人ずつ挨拶をすることになりました。
自分の番になったので、「三井不動産を蹴って、三井不動産販売に入社することにしました!」と言ってみたところ、会場に大きなどよめきが起きました。
今思えば、居並ぶ役員の方々は親会社である三井不動産の出身者ですし、天下の三井不動産を「蹴る」なんて、どんな奴なんだ!と思われたに違いありません。
事実関係はこうです。
三井不動産販売の人事部に入社の意思を伝えた翌日に、三井不動産から「セミナーを開催するのですが、参加しませんか?」という電話を頂きました。
そのため、「いえ、もう三井不動産販売にお世話になることを決めましたので、結構です」とお断りしたわけです。
つまり、「三井不動産から内定もらったのに断った」のではなく、「選考が始まる前に辞退した」というのが真実ですから、ウケ狙いとはいえ我ながら大胆な挨拶をしたものです。
そんなことがありましたので、仮に今も三井不動産販売に残っていたとしても、おそらく出世していなかったでしょうね(笑)。
- 三井のリハウス
平成4年(1992年)4月に晴れて三井不動産販売株式会社に入社しました。
そして、当初からの希望どおり、三井のリハウスの店舗に営業社員として配属となりました。
(ちなみに当時のリハウスガールは一色紗英さんでした。)
当時「三井のリハウス」は地域毎に設立された会社(リハウス会社)が店舗展開をしており、店舗に配属されるためには、三井不動産販売からリハウス会社への出向という形をとる必要がありました。
右も左も分からない新人を、いきなり関連会社に出向させるというのもすごいことですが、おかげでとても良い経験ができたと感謝しています。
今でもそうなのですが、私はどちらかというと人見知りでして、初対面の人と会話するときに極度に緊張してしまいます。
そのため、よく「怒っているの?」と聞かれるくらい表情が硬くなり、会話もぎこちなくなってしまうなど、およそ営業には向かない性格だと思っていました。
実際、チラシを見て電話を頂いたお客様を現地内覧に誘導し、現地で初めて顔を合わせてご案内し、最終的に購入申し込みを頂くという、いわゆる客付け営業はやや苦手でした。
これに対して、売りの担当は比較的得意でした。
初対面がぎこちないのは変わりないですが、何度も顔を合わせるうちに緊張も解けてきて、お客様からも信頼を頂けたように思います。
専任媒介(仲介を1社だけに依頼すること)の場合は勿論のこと、一般媒介(複数の会社に仲介を依頼すること)の場合でも、最終的には私のほうで成約することができたことが多かった記憶があります。
結局3年間営業を経験したわけですが、色々な物件を担当し、様々なお客様と直に接することで、不動産の世界の面白さや奥深さを知ることができました。
- 契約審査
平成7年(1995年)4月、リハウス会社への出向が解かれ、本社勤務となりました。
本社ではリハウス契約課(当時)という部署に配属となったのですが、リハウス契約課では首都圏のリハウス店舗で行われるすべての取引に関し、重要事項説明書及び売買契約書の内容をチェックを行っていました。
具体的には、各リハウス店から重要事項説明書・売買契約書の草案(ドラフト)とともに、住宅地図、登記簿謄本、公図、建物図面、地積測量図、その他の資料をFAXで送ってもらい、それをチェックするというものでした。
平均すると担当者一人あたり月100件、年間1000~1200件くらいの契約審査をしていました。
私も約5年間でトータル5000件超の契約書・重要事項説明書をチェックしましたが、月末の週末に契約するケースが多かったので、最終金曜日には1日で30件の審査をしたこともありました。
チェックする側というのは、ややもすると保守的な意見に偏りがちですし、一方の営業サイドというのは何とか取引を成立させたいということで、前のめりになってしまっていることが少なくありません。
コンプライアンスをきちんと確保しつつ、できる限りビジネスを前進させる、というバランス感覚を身につけることができたのは、この時の経験が大きかったと思います。
- 研修講師デビュー
契約審査業務の傍らで、営業社員向け研修の講師を担当する機会も多かったです。
当時の私は入社5-6年目でしたので、受講者全員が年上ということが少なくありませんでした。
「法律ではこうなっています」、「こうしなければダメ」といった話を若造から言われても、なかなか素直には聴いていただけなかったりします。
講師が受講者からリスペクトしてもらえないと、研修の成果を上げることは難しいものです。
そのため、いかにして興味を持ってもらうか、説得力のある話し方・構成とはどのようなものか等、試行錯誤の連続でした。
年齢を重ね、実務経験も多くなった現在は、当時と比べると格段にアドバンテージがあります。
しかし、毎回毎回が真剣勝負、常に改良を続ける必要があるのは今も変わりません。
- 外資系ファンドへの転職
平成11年(1999年)の年明けに転機が訪れました。
正月明け早々に、新人の頃にお世話になった先輩から電話を頂きました。
その先輩は、前年の暮れに外資系投資ファンド"ローンスター"のアセットマネジメント(AM)会社である"ハドソン・ジャパン"に転職されていました。
当時は金融機関が不良債権のバルクセール(一括売却)を始めた頃で、ローンスターも買い手の一つとして名前が挙がっていました。
久しぶりに食事でもしようということでお会いしたのですが、先輩から「うちに転職する気はないか」と言われ、思いもしない展開に頭が真っ白になった記憶があります。
既に結婚もして二人の子供がおりましたし、不安がなかったかといえば嘘になります。
実際、大企業の従業員という安定した立場を捨て、当時殆ど誰も知らない外資系ファンドのAM会社に転職するなんて無謀だと忠告してくださる方もいらっしゃいました。
ですが、30歳になる直前ということもあり、万一ダメでもやり直せばいいと腹を括り、最終的に転職することにしました。
- 売れない不動産はない!
ハドソン・ジャパンでは、不動産チームに配属となりました。
当時は私を含め5名という本当に小さなチームでした。
仕事内容はというと、ファンドが購入した不良債権の担保不動産が競売となり、応札者が誰もいない場合において、同じくファンドが設立したSPC(特別目的会社)でその担保不動産を落札し、所有権を取得したうえでこれを再販するということでした。
都市銀行だけでなく、地方銀行からも不良債権を購入していましたので、東京だけではなく、北海道から沖縄まであらゆるエリアの物件を担当しました。
また、不良債権の担保物件ということで、普通の事務所ビル、住宅、賃貸マンションだけでなく、工場、工業団地、農地、山林、原野、パチンコ店、ラブホテル、ゴルフ場、スキー場、果てはマンションの管理人室まで、本当に色々な物件がありました。
さらに競売ということで、債務者やいわゆる占有屋と呼ばれる人たちが占有していることも多く、弁護士に依頼して明け渡しの交渉をしたり、時には強制執行まで行ったりすることもありました。
おかげでとても勉強になりましたし、「売れない不動産は無い」というのは半ば私の信念のようになりました。
- 事業家管財人団
ある会社が会社更生法の適用を申請し、ローンスターファンドが企業再建のスポンサーとなったことがあります。
私もスポンサーサイドからその更生会社に派遣されるスタッフ(事業家更生管財人団)の一員に選ばれました。
その会社は幾つかの事業を行っていたのですが、私は不動産その他の事業を統括する管財人代理(担当役員に相当)となったのです。
当時自分の会社でも不動産チームのリーダーとしてマネジメントを経験していましたが、他所の会社に乗り込んでマネジメントをするというのは大きなプレッシャーでした。
ましてや不動産以外の業務については全くの門外漢であり、自分にいったい何ができるのかととても不安で、恐る恐る担当部門のあるフロアに足を踏み入れたものです。
幸いなことに、私が担当した部門の方々は年上の方ばかりであったにもかかわらず、若輩者である私に対して非常に紳士的に接してくださいました。
もちろん、私も必死になって担当部門の業務について勉強しましたが、長年実務をやっている方々に追いつき追い越すことなど到底できません。
そうした中でマネジメントを適切に行うためには、
- 現場のメンバーとの信頼関係を構築すること
- 徹底的に任せること
が大切だということを学びました。
短い期間ではありましたが、その後のチームマネジメントにとても大きな影響をもたらした経験でした。
- エグゼキューション
平成17年(2005年)12月からは、当ファンドが不動産を購入する際のエグゼキューション(契約事務)とデューデリジェンスを担当する部門に異動となり、その部門の責任者となりました。
とはいっても、最初の頃はエグゼキューションを担当する私と、デューデリジェンスを担当するもう一人の方の2人だけの部門でしたが(笑)。
それなのに、部門立ち上げ直後から何件もの案件が同時並行的に始まり、連日深夜残業が続くなどてんてこまいの状態でした。
エグゼキューション業務の主な内容は、
- 売買契約書、信託契約書等の作成(ドキュメンテーション)
- 売買代金、敷金、各種収益・費用の精算金の計算
- 登記手続の手配
- 管理の引き継ぎ
- 承継書類、鍵の授受
などですが、実際には細かい作業がたくさんあります。
エグゼキューション業務の特徴としては、ターゲットとなる日付(期限)までに全ての手続を完了させなければならないというプレッシャーがあり、かつ大抵そのスケジュールがタイトだということがいえます。
最初は2人だけの部門でしたが、さすがにそれでは回らなくなってしまいますので、徐々に人員を増やしていきました。
その過程で実務を担当者に移行し、私自身はマネジメントを中心に行うようにしていきました。
勿論そんなに大きな部門ではないため、実務から完全に離れてマネジメントに特化したわけではありませんが、人材育成の観点からできる限り「任せる」ようにしていました。
幸いなことに、優秀なメンバーばかりであったこともあって、すぐに全面的に実務を任せることができるようになりました。
- 金融商品取引法
平成19年(2007年)9月30日に「金融商品取引法」が施行され、アセットマネジメント会社は「投資運用業」、または「投資助言代理業」のライセンスを取得しなければならなくなりました。
このため、コンプライアンス部門を中心にプロジェクトチームが立ち上げられ、金融商品取引法に対応した組織、社内規程の整備等を行うことになりました。
私も不動産部門の代表の一人としてこれに関わりました。
法律が施行された直後の運用実務が確立していない中での作業であったため、一つひとつ手探りで進めなければなりませんでしたが、なんとか期限までに対応を完了しました。
自分で言うのはおこがましいのですが、フロント(営業)部門の実務を熟知しつつ、かつ法務・コンプラアンスに関しても一定の知識を有していた私の果たした役割は決して小さくはなかったと思います。
- 「社内教育」に注力
マネジメントの一翼を担うなかで、私が最も力を注いだことが社内教育です。
部内メンバーが交代で講師を務める勉強会や、宅建未取得者向けの勉強会・合宿研修を行なったり、社外セミナーへの参加や資格取得を奨励したり、といった施策を積極的に行ってきました。
社内教育によって、技能(スキル)の向上だけではなく、使命(ミッション)や行動指針を浸透させることや、何よりもメンバーの一人ひとりにやりがいを感じて頂くことにもつながると思います。
私のチームのメンバーの中にも、当初は補助的な業務しかできなかったにもかかわらず、研修や資格取得、OJT等によって能力を飛躍的に向上させ、より専門的な業務を担当するまでになった人がいました。
チーム(会社)の戦力は「質」×「量」で決まります。
「質」というのはメンバー個人の能力、「量」は人数ということになります。
新たな人材を採用するのもよいですが、既存メンバーの戦力を向上させることによって、チーム(会社)にとっても、メンバーにとってもハッピーな形になることが多いと思っています。
- 行政書士試験
リーマンショック直後から、ファンド業界全体が厳しい状況を迎えました。
そんな中で、私は平成20年(2008年)12月から行政書士試験の勉強を始めました。
常日頃チームメンバーに自己啓発の大切さを訴えていたので、自分自身も何かをやらないと示しがつかないと思ったのがきっかけです。
幸か不幸か、ピーク時のような深夜残業の連続という状態ではなくなっていましたので、それなりに勉強時間を確保することができました。
久しぶりの試験勉強だったのですが、若い頃のような吸収力がなくなってきたためか、なかなか合格レベルまで辿り着けずに苦労しました。
それでも最後の1週間で尻上がりに調子が上がり、なんとか合格証を手にすることができました。
- 起業を決意
行政書士試験の試験勉強をしている間に、40歳の誕生日を迎えました。
人生80年だとすれば、ちょうど折り返し地点に差し掛かったわけです。
残りの人生をどう生きていくべきか、いやどう生きていきたいか、ということを考えるようになりました。
そして、起業こそが自分の進むべき道ではないかという結論に至りました。
こうしてサラリーマン生活に終止符を打ち、平成22年(2010年)3月より不動産法務サポートオフィスを設立するに至ります。
「不動産プレーヤーの強力な助っ人、熱烈な応援団でありたい」
そういう思いで日々業務に取り組んでおります。